パラオ・ペリリュー島レポート   Peleliu, Palau Report
1. 概要
 パラオ共和国は日本のほぼ真南、約3000kmに位置する。586個の島々からなり、公用語はパラオ語と英語、通貨は米ドルである。
 パラオはスペイン、ドイツの植民地を経て、第一次世界大戦後日本の委任統治領となる。日本の統治が始まってからインフラの整備が進み、現在の繁華街があるコロール島は南洋庁が置かれて発展した。国際連盟脱退後は建設を禁止されていた軍事施設の建設も始まり、ペリリュー島やアンガウル島などは日本軍によって要塞化された。
 日本からパラオ共和国は、一部チャーター便を除き、基本的にはグアム経由で訪れることになる。日本からグアムまでは約3時間、グアムからパラオまでは約1時間である。飛行時間以外に、グアムでのアメリカへの入国・出国検査、乗り継ぎ時間等を考えると、ほぼ一日がかりとなる。
 ペリリュー島までは、ホテル・繁華街のあるコロール島から船で1時間ほどである。今回はツアー会社を利用して訪れた。

図1 日本とパラオの位置関係
図1) 日本とパラオの位置関係 [1] 
図2 パラオ共和国全域図
図2) パラオ共和国全域図 [2] 
    地図データ提供「南溟の桜」
図3 ペリリュー島周辺図
図3) ペリリュー島周辺図 [2][3]    地図データ提供「南溟の桜」
2. ペリリュー島 [3][4] 
①ノースドック(北波止場)
 コロール島を出発した船はペリリュー北部のノースドックへ到着する。ペリリュー島の集落は北側に集中しており、これは戦時中島民のすべてが疎開し、戦後島に戻る際に最初につくられた集落が島の北部にあったことに由来する。
 ノースドックからはバスでの移動になる。ここからペリリュー飛行場までは道路が整備されており、大型の乗り物でも交通可能である。

ノースドック 対岸にはガドブス島が見える
写真1) ノースドック 対岸にはガドブス島が見える
②トーチカ&橋梁跡
 ノースドックからすぐの場所にトーチカ跡がある。海岸の監視や、敵の上陸に備えるために設営された。ペリリュー島にはこのような大小のトーチカが今でも多数現存する。
 また、ペリリュー島の北部にはガドブス島があり、当時は橋でつながっていた。爆撃と艦砲射撃で橋は破壊されてしまったが、今でも橋脚は残っている。ガドブス島には当時、飛行場と弾薬倉庫が存在した。

写真2) トーチカ跡
写真2) トーチカ跡

写真3) トーチカ跡
写真3) トーチカ跡

写真4) ペリリュー島とガドブス島の橋 今は橋脚のみ残る
写真4) ペリリュー島とガドブス島の橋 今は橋脚のみ残る
③千人洞窟
 海岸に近いところに千人洞窟といわれる人工の洞窟がある。この洞窟は要塞化のために日本軍が作成した。洞窟内部には、当時使われていた瓶や食器が放置されている。中は迷路のように入り組んでおり、複数の出口が存在する。また、周辺の洞窟と密接に関係して作成されており、複数方向の攻撃や、いくつかの入り口が破壊されたとしても、中に立てこもって戦闘が継続できるつくりになっている。このような洞窟とトーチカのおかげで、アメリカ軍が上陸前に猛烈な艦砲射撃と艦載機による爆撃を行ったが、その攻撃では守備隊にほとんど被害が無かったとされる。

写真5) 千人洞窟入り口
写真5) 千人洞窟入り口

写真6) 千人洞窟内部1 当時の空き瓶が転がる
写真6) 千人洞窟内部 1 当時の空き瓶が転がる

写真7) 千人洞窟内部2
写真7) 千人洞窟内部 2
④戦没者慰霊碑(みたま)
 ノースドックから南に1kmほどのところに、戦没者慰霊碑がある。ここには茨城県のご遺族・みたまの会の有志によって建立された「みたま」や、ペリリュー島守備隊生存者で結成された「三十四会」の慰霊碑、戦車隊や砲兵隊の慰霊碑も併設されている。現地の方々により管理、整備されており、きれいな状態で保たれている。すでに多くのお供え物があったが、靖国神社の御神酒とタバコをお供えした。

写真8) 戦没者慰霊碑「みたま」
写真8) 戦没者慰霊碑「みたま」

写真9) 「みたま」と各隊の慰霊碑
写真9) 「みたま」と各隊の慰霊碑

写真10) 「みたま」のお供え物
写真10) 「みたま」のお供え物

写真11) 中川中将の言葉
写真11) 中川中将の言葉
⑤日本軍帰還者34名の洞窟
 幹線道路をさらに南に下ると、日本軍生還者の34名が潜伏していた洞窟の前を通る。 この34名は、アメリカ軍上陸時にはそれぞれ陸海軍の別の地区隊・陣地に配置されていたが、その後潜伏場所を転々とし、終戦後も2年近く潜伏していた。
洞窟は基本的に島の中心部から海岸へ向いているが、この洞窟が海側にあり、入り口の背がとても低かったため、アメリカ軍に発見されないような場所であった。現在は洞窟への道は草木でおおわれており、見ることができなかったが、近くの道路沿いに看板がある。

写真12) 洞窟の入り口を示す看板 洞窟への道は草木でおおわれている
写真12) 洞窟の入り口を示す看板 洞窟への道は草木でおおわれている
⑥ペリリュー第二次世界大戦記念博物館
さらに南へ進むと、第二次世界大戦記念博物館がある。中は改装してあるが、当時の建物をそのまま使用しており、建物の西側には砲撃の跡が生々しく残っている。
 この博物館には、日本軍とアメリカ軍、両方の資料が展示されている。両軍ともに当時の兵器や日用品などが展示されている。島全体の地図や当時の航空写真も残されており、現在は南北にしか残っていないペリリュー飛行場が、十字型の完全な形を保っている写真がある。この巨大な飛行場がこの島にあったために、この島とパラオ全域がアメリカ軍の攻撃対象になったとされる。
 博物館の外側には、800kg爆弾や酸素魚雷、機雷の展示などもある。屋外に設置されているため、傷みが激しいが、800kg爆弾や機雷はほぼ原形をとどめている。

写真13) ペリリュー第二次世界大戦記念博物館
写真13) ペリリュー第二次世界大戦記念博物館

写真14) 博物館
写真14) 博物館 写真中央は現在窓になっているが艦砲射撃を受けた跡である

写真15) 博物館の看板
写真15) 博物館の看板 看板の下には日本軍の機雷がある

写真16) 博物館内部
写真16) 博物館内部

写真17) 博物館内部
写真17) 博物館内部

写真18) ペリリュー飛行場の写真
写真18) ペリリュー飛行場の写真

写真19) 酸素魚雷
写真19) 酸素魚雷

写真20) 800kg爆弾
写真20) 800kg爆弾
⑦日本海軍司令部
 博物館から舗装されていない道に入る。道の両側は草木が生い茂るジャングルになっており、その道を進むと日本海軍司令部跡に到着する。ここは中に入って見学ができる。
基本的な骨組みは残っているが、所々鉄筋がむき出しになっており、二階部分は半分以上がなくなっている。また、天井には爆撃で破損した部分に穴が開いており、ここでは銃撃戦もあったため、壁や柱に弾痕がある。基礎部分はほとんどが残っているため、トイレ跡やふろ場跡なども見ることができる。
司令部内には通信施設跡も残っており、機密保持のための厚い扉が残っている。かなり頑丈に作られているため、今でも島民の避難場所に使われることもあり、最近では大型の台風がパラオに直撃した際に、この通信施設跡に島民が避難した。軍事施設ではあるが、残っている階段の作りを見ると、海軍らしいモダンなデザインである。
 司令部のそばには、防空壕も残っている。以前はこちらの中にも入ることができたが、今は老朽化が進んで危険なため、入ることができない。この防空壕も以前は島民の緊急時の避難場所に使われた。
また、ペリリュー島の戦いにおいて主力であった陸軍のペリリュー島守備隊の司令部は、中央高地の大山の洞窟にあった。

写真21) 日本海軍司令部
写真21) 日本海軍司令部

写真22) 日本海軍司令部内部
写真22) 日本海軍司令部内部

写真23) 日本海軍司令部天井
写真23) 日本海軍司令部天井 爆撃により穴が開いている

写真24) 二階通信室の扉
写真24) 二階通信室の扉 通路は失われている

写真25) 通信施設部分
写真25) 通信施設部分 写真左の扉の上には銃撃戦による弾痕が見える

写真26) 階段部分
写真26) 階段部分

写真27) 日本海軍司令部横の防空壕
写真27) 日本海軍司令部横の防空壕
⑧九五式軽戦車
 総司令部跡から南西に向かうと、九五式軽戦車の残骸がある。この戦車はペリリュー飛行場の東西に伸びていた滑走路の西側の先端部分にある(当時の滑走路は現在道路になっている)。
 米軍の攻撃により、車両は大破し、装甲の至る所がめくれてしまっている。
 この九五式軽戦車は、天野戦車隊の車両とされる。

写真28) 九五式軽戦車
写真28) 九五式軽戦車

写真29) 九五式軽戦車
写真29) 九五式軽戦車

写真30) 九五式軽戦車
写真30) 九五式軽戦車
⑨ペリリュー飛行場
 九五式戦車の近くには、ペリリュー飛行場がある。大戦中は南北と東西に十字の滑走路が存在していたが、現在は南北の滑走路のみである。現在でもセスナ機の着陸や、コロール空港が使用不可能な場合の緊急の飛行場に指定されてはいるが、あまり整備がなされておらず、地面の凹凸が目立つ。自動車で飛行場を横切ったが、体が左右にかなり揺れるほど路面の状況は悪い。2015年に天皇陛下が訪れた際には、ヘリコプターでペリリュー飛行場へ到着された。その際に使用された一部分のみ、舗装されている。

写真31) ペリリュー飛行場
写真31) ペリリュー飛行場
⑩天皇皇后両陛下ご休憩場所(サウスドック)
 サウスドックで昼休憩となる。
 ここには天皇皇后両陛下がご休憩された建物があり、建物内部は自由に見学ができる。中には天皇皇后両陛下がパラオを訪れた際の写真が多く展示されている。

写真32) サウスドック
写真32) サウスドック

写真33) 天皇皇后両陛下ご休憩処
写真33) 天皇皇后両陛下ご休憩処

写真34) ご休憩処内部
写真34) ご休憩処内部

写真35) サウスドック
写真35) サウスドック
⑪ペリリュー平和記念公園(オムルウム岬)
 ペリリュー島の最南端に、ペリリュー平和記念公園がある。ここには西太平洋戦没者の碑が建立されている。こちらも天皇皇后両陛下が訪れ、献花された場所である。
 この岬からは、激しい戦闘の末、日本軍が玉砕したアンガウル島も見ることができる。アンガウル島へも船をチャーターすれば訪れることもできるが、外海のため波が荒く、ペリリュー島と比べてはアクセスのしづらい島である。

写真36) ペリリュー平和記念公園
写真36) ペリリュー平和記念公園

写真37) オムルウム岬から見えるアンガウル島
写真37) オムルウム岬から見えるアンガウル島

写真38) アンガウル島
写真38) アンガウル島
⑫零式艦上戦闘機五二型
 道路沿いの林の中に、朽ちた零式艦上戦闘機52型がある。損傷が激しく、コックピット部分と主翼の一部が残るだけになっており、表面は赤く錆びている。コックピット部分は覗き込むことができるが、計器類は無くなっている。この零戦はバナナとヤシの木の中に埋もれている。

写真39) 零戦へのジャングルの入り口
写真39) 零戦へのジャングルの入り口

写真40) 零式艦上戦闘機
写真40) 零式艦上戦闘機

写真41) 零式艦上戦闘機
写真41) 零式艦上戦闘機

写真42) 零式艦上戦闘機コックピット内部
写真42) 零式艦上戦闘機コックピット内部
⑬オレンジビーチ
 オレンジビーチは遠浅の海になっており、遠くに波が立っているのがわかる。上陸地点に適しているため、アメリカ軍の一部がここから上陸した。日本軍も上陸地点の予測はついていたため、強固な陣地を構築していた。
アメリカ軍が上陸してきた際、射程内にとらえてもすぐに発砲せず、十分にひきつけてから攻撃を開始した。第一群は大砲と小火器の攻撃で大打撃を受け、壊滅した。この時攻撃したのはアメリカ軍第一海兵師団であり、アメリカ軍で最も古く、経験豊富で規模が大きい師団であった。すべての海兵隊史上唯一の敗北が、このペリリューの戦いである。そのような凄惨な戦いが起きた海岸であるが、今は穏やかな景色が広がっている。

写真43) オレンジビーチ
写真43) オレンジビーチ 上陸作戦に向く遠浅の浜になっている
⑭米軍水陸両用車
 オレンジビーチに立ち寄った後は、島の中心部へ向かう。島の中心部にはアメリカ軍の水陸両用戦車や日本軍の大砲跡がある。水陸両用戦車は錆びてはいるが、ほぼ原形をとどめており、星のマークや車両番号なども確認できる。また、水陸両用戦車の脇は、捕虜収容所があった場所であり、今も有刺鉄線の支柱が残っている。

写真44) 水陸両用車
写真44) 水陸両用車

写真45) 水陸両用車
写真45) 水陸両用車

写真46) 水陸両用車砲塔部分
写真46) 水陸両用車砲塔部分
⑮防空壕・大砲跡
 水陸両用戦車の奥には、日本の大砲がある。ほとんどの大砲は、上陸が予想される西側に配置されていたが、この大砲は東側に備え付けられていたため、アメリカ軍からの攻撃から逃れ、そのまま残っている。

写真47) 日本軍防空壕・大砲跡
写真47) 日本軍防空壕・大砲跡
⑯ペリリュー神社
 ペリリュー神社は、戦時中のものではなく、新しく建て直されている。元は1934年に設立された。現在のペリリュー神社は1982年に新しく建て直されたものである。
ニミッツ海軍元帥の言葉が刻まれた碑も作られている。直訳すると、
「この島を訪れるすべての国の観光客は、この島を守って死んだ日本の兵士たちがどれほど勇敢で愛国的であったかを伝えるべきである。」
となる。

写真48) ペリリュー神社
写真48) ペリリュー神社

写真49) ニミッツ元帥の言葉
写真49) ニミッツ元帥の言葉
⑰大山(ブラッディノーズリッジ)
 大山(ブラッディノーズリッジ)へは山道を進むことになる。周辺はまだ地雷の撤去が完了しておらず、注意を促す看板と、地雷原との境界線を示す赤と白の杭が至る所に埋め込まれている。ツアーで使用する道は安全であるが、脇道は地雷が埋まっている可能性があるため立ち入ることができない。
 山道の途中に顕彰碑がある。これはペリリュー島慰霊推進会が作ったもので、ペリリュー島での戦いの概略と、陸海軍の守備隊の編成一覧が書かれている。ここで注目したいのが、建立の日付が昭和64年2月となっている。実際には昭和64年の2月は存在しない。これには、すでに発注されていたため、変更ができなかった説と、大戦のあった昭和という時代を忘れないためにも、作り直さずそのままにしたという説がある。
 道の行き止まりまで進むと、洞窟とその入り口に慰霊碑がある。ここはペリリュー島の戦闘で最後まで抵抗した部隊が立てこもった洞窟である。この近くで中川大佐、村井少将も自決されており、この洞窟でも自決者が出ている。洞窟と慰霊碑に祈りをささげ、ここにも靖国神社の御神酒とタバコをお供えした。

写真50) 大山への道
写真50) 大山への道 地面には地雷警告用の杭が見える

写真51) 顕彰碑
写真51) 顕彰碑

写真52) 顕彰碑
写真52) 顕彰碑 「昭和64年2月」の文字が刻まれている

写真53) 洞窟前の慰霊碑
写真53) 洞窟前の慰霊碑
 大山の探索を終えると、北波止場までバスで移動する。途中民宿でトイレ休憩となるが、このトイレを貸していただける民宿は日系人の女性が営んでおり、日本語も流暢に話される。この民宿には南洋桜が咲いていた。
 北波止場からコロール島へ帰途に就く。ペリリュー島に訪れたのは8月で雨季のため、雨の日が多いが、この日は幸運にも晴れており、とても気温が高かった。

写真54) 民宿に咲いていた南洋桜
写真54) 民宿に咲いていた南洋桜
3. 謝辞
 ペリリュー島ツアー当日の案内と、本レポートの内容確認を行っていただいた元陸上自衛官、ロックアイランドツアーカンパニーの平野雅人氏に謝意を表します。

4. 参考文献