甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第1号
2014年8月11日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。
ホームページもリニューアルが完了し、News Letter第1号をお送りできる運びとなりました。
 関東にも近づいた台風11号。四国方面では多大な被害を出していますが、これ以上災害が拡大しない事を祈るばかりです。
この台風にはHALONG(ハーロン)という名前が付けられています。
由来は世界遺産にも登録されている、景勝地として名高いベトナムの美しい湾の名前です。

 今回のエッセイの舞台は、同じく美しい2つの湾を持つマルタ島。
一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。
<地中海の日本海軍慰霊碑>

地中海にマルタ島という島が浮かんでいます。 ちょうどイタリア半島の靴先の島、シチリア島からさらにこぼれ落ちた砂粒といったところで、淡路島の2/3ほどの小さな島が、一つの国家を形成しています。
古くはマルタ騎士団で知られ、紺碧の海からそびえ立つ中世の要塞に囲まれた街は狭く、宝石箱みたいに教会がひしめき合っています。だいたいのんびりとした島で、太刀魚と兎が名物らしく、マーケットでもよく見かけます。
この島に「大日本帝國第二特務艦隊戦死者之墓」と彫られたオベリスクが建っています。少し奥まった静かなところで、たまたま観光客が訪れるというような場所ではありません。
これは第一次世界大戦の時の墓碑であり慰霊碑です。

今から100年前の1914年(大正3年)6月にフランス、イギリス、ロシア、イタリアなどの連合国とドイツおよびオーストリア=ハンガリーとが干戈を交える、ヨーロッパを二分する大戦争が始りました。この第一次世界大戦は遠い対岸の火事では済まず、日英同盟によって連合国の一員となったわが国にも大きく関わってきました。
日本は開戦早々ドイツ海軍極東の大拠点、膠州湾の攻略を行いましたが、これは日本海軍初の航空戦として映画「青島要塞爆撃命令」(東宝1963年)の題材に採り上げられています。
戦争は大方の楽観的予想に反して長期化して行きました。航空機のみならず、鉄道、戦車、毒ガス、そして海には潜水艦と、新兵器の登場は戦場の景色を旌旗堂々の騎士道的物語から、国家の総力を投入した大量殺戮の場へと変貌させていました。
連合国側は西部戦線の膠着状況を突破するため、米国からの兵員と物資を欧州へと送る必要がありましたが、それには輸送船が地中海を横断していかなければなりません。しかし、その前にドイツとオーストリアによる無制限潜水艦作戦が立ちはだかりました。連合国側の全船舶を標的とした無警告攻撃のUボートの跳梁に、兵士や弾薬を満載した輸送船が次々と沈められていったのです。
開戦から三年、連合国側は満足に船舶を護衛する能力も乏しくなっていました。地中海はすっかり「魔の海」と化していたのです。

1917年(大正6年)、日本では再三の英国からの要請を受け入れ、佐藤皐蔵少将指揮の下、巡洋艦明石を旗艦とし、新鋭駆逐艦を揃えた第二特務艦隊が編成されました。マルタ島が根拠地と定められ、明石と8隻の駆逐艦は4月13日にマルタ島に到着、カルカラクリークという小さな入り江にひしめき、軍艦旗を翻すやいなや、各艦はすぐさま船舶護衛に飛び出していきました。
小さなアジア人が、極東からのこのことやってきて、何か出来るのか? 役に立つのか? 世界が注視している中で、同盟国の船舶を護る戦いに日本軍人は全身全霊をかけて取り組みました。渦巻く波涛の中に針の如くその身を覗かせ獲物を狙う潜望鏡。私たちの常識で考えればそんなものが目に見えるわけがありません。それでもこれを見つけなければ船団が襲われる。樺型駆逐艦は常備排水量665トン、全長82.29メートル。この全長を現代の電車に置き換えたとしたら4両編成程度の長さで、こんな小さな駆逐艦が波浪に弄ばれながら、切れることのない緊張の中で連日連夜、無防備な輸送船をエスコート(=護衛任務)していったのです。

マルタに到着して3週間に充たない5月3日夕方、駆逐艦榊(さかき)、松の二隻は、3,266名の軍人、看護婦、乗員を乗せてマルセイユを出港し、地中海を横切ってアレクサンドリアへ向かう輸送船トランシルヴァニア号(14,348総トン)のエスコートについていました。
明けて4日朝、同船に忍び寄ったドイツ潜水艦U63の魚雷が命中。すかさず駆逐艦松は停止したトランシルヴァニア号に接舷し、敵潜水艦の眼前にも関わらず乗船者の救助にかかり、一方榊は当時まだ新しい兵器であった爆雷の投下を開始。しかし続いて2本目の魚雷が松の艦首をかすめてトランシルヴァニア号に命中、同船は大きく傾斜して急速に沈み始めました。いよいよ榊も戦闘を中断して救助を開始し、さらに到着した僚艦とともに3,000名を救助したのでした。
停止した輸送船に横付けしての救助は敵潜水艦からすれば恰好の餌食であり、また大型船に横付けしての作業は極めて危険であるにも関わらず、自らを顧みずにその職責を全うしようとする日本軍人の活動は、同盟国に大きな感銘と信頼を与えました。救助者を送り届けて港を出ていく日本駆逐艦を見送る英国の陸兵で、海岸、道路、窓、ベランダが黒山の如くに満たされたといいます。両駆逐艦の士官、下士官には英国国王から勲章が下賜されました。
 この活躍を契機として地中海に於ける日本艦隊の芳名は高まり、指して「地中海の守護神」とまで呼ばれ、船長達は競って日本駆逐艦による護衛を願い、「日本艦の護衛無くしては出港しない」という船長が出るまでに信頼されるようになっていったのです。 第二特務艦隊の船舶護衛任務はますます拡大して多忙を極めるとともに、戦力も増強されて行きました。
 艦隊には山口多聞中尉がおり、また後から合流する駆逐艦檜には小沢治三郎大尉の姿がありました。どちらも四半世紀後には海軍の中枢となって大東亜戦争を戦った人物です。当時の海軍の地中海派遣に対する意気込みを垣間みる事が出来ると思います。

 こうして日本海軍の名を世界に高らしめた駆逐艦榊、松でしたが、悲劇はすぐに訪れました。6月11日、二隻で根拠地マルタへ帰投するため航行中、昼過ぎに潜望鏡を発見した直後、左舷至近より榊がオーストリア潜水艦U27からの雷撃を受けたのです。
 魚雷は前部弾火薬庫に命中、一瞬のうちに艦首から艦体の三分の一が吹き飛び、艦橋、マスト、第一煙突がなぎ倒され機関室に浸水するも、残存乗員の沈着冷静な行動により沈没は免れ、英国海軍艦艇に曳航、護衛されクレタ島に辿り着いたのでした。しかし、上原艦長以下59名が壮烈戦死され、負傷者は16名を数えました。
 戦死者の御遺骨はやがて、戦病死された他艦の乗員の御遺骨とあわせて73柱がマルタ島のカルカラに合葬され、墓標が建てられました。榊の触雷から1年後の1918年6月11日、厳しい護衛任務の閑暇を得て、佐藤司令官以下の日本艦隊将兵、英マルタ総督、英海軍首脳部、下士卒、文官、民間人など多くの参列者を迎えて盛大な慰霊祭が営まれました。これがマルタ島のオベリスク、「大日本帝國第二特務艦隊戦死者之墓」の由来です。
 オベリスクは日本陸海軍において墓碑の正式な形式でした。今でも、各地の陸海軍墓地で見ることが出来ます。
 やがて、長い任務を全うした第二特務艦隊は1919年5月頃からマルタと、そこに葬られた戦友達に別れを告げて逐次日本への凱旋をしていきました。佐藤司令官の上奏文によると第二特務艦隊の護衛した連合国船舶の数は788隻、人員にすると70万人以上とされています。これらの護衛が西部戦線への増強に繋がり、そして連合国側の勝利の一助になり、さらには日本の国際的地位を押し上げる基盤を築いたと言えましょう。

日露戦争に勝利を得たとはいえまだ有色人種の地位が低い時代、日本人が自分たちの力で作りあげたフネで、日頃鍛えたその腕を試さんの意気高らかに白波を蹴たてて地中海を駆けめぐったこの壮挙は、平時から「海を家なる強者」という当時の海軍軍人にとっても空前のもので、手記を見ても戦場の緊張、気象の厳しさもさることながら、初めて見る諸外国の珍しい風物に触れ、心躍るのが伝わってくる場面もあります。暑くてことあるごとにサイダーを飲み、ついには搭載していたサイダーが無くなってしまうといったエピソードに、当時の青年の等身大の姿が見て取れます。

 今日、マルタ島のグランドハーバーでは、毎日大きなクルーズ客船が行き交って実に華やかです。ここはもう潜望鏡に怯えた100年前の魔の海ではありません。
 しかし、港を囲む白っぽい城壁や、古い町並みは大正時代の青年達が目にした景色と、あまり変らないように思えます。
 碑は今日もなお清潔に保たれ、鮮やかな青い空をまっすぐに貫いて建っています。この島にはかつての日本海軍の偉業を忘れないでいて下さる方がおられるのでしょう。
 第二特務艦隊の碑は遥か遠く地中海の小さな島の海軍墓地の中で、私たち後代の日本人に「責任とは何か」「職分とは何か」を、黙って示しているように思えます。
 それは、たとえ時代が変わっても、日本人として持ち続けて行かなければならない気概であるように思います。



※第二特務艦隊についての書籍
「日本海軍地中海遠征記」紀脩一郎著 研究書
「日本海軍地中海遠征記」片岡覚太郎著 C.W.ニコル編 主計科士官の手記
「マルタの碑」秋月達郎著 小説

※当時の味を体験したい方は
田中食品「旅行の友」第一次世界大戦で各地へ出て行く艦艇の中で痛まず、栄養価が高く、食べやすいものとして開発されたのが「ふりかけ」でした。