甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第4号
2014年11月12日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。
 今回は今までの史実エッセイから視点を変え、慰霊祭参列のレポートをお送りいたします。
慰霊祭が催行されたのは厄除け・厄払い、また「くらやみ祭」でその名を知られる、東京府中に鎮座坐す大國魂神社です。武蔵国の守り神として千年以上の古くから信仰を集めるこの社ですが、この度のレポートでは軍艦多摩との関係性が明らかにされています。
 一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。


 11月25日(月)、台湾の台中寳覚寺にて行われる旧台湾出身帝國陸海軍戦没者慰霊祭では、甲飛喇叭隊 第十一分隊もお手伝いいたします。
寶覚寺は大きな金の布袋様の像で知られ、日本からの観光客も数多く参拝していますが、ここには日本人墓地と、日本軍人として戦没された台湾出身者の為の慰霊碑があります。
 24日(日)には、杉浦茂峰飛行兵曹長をお祀りしている飛虎将軍廟(台南)に参拝いたします。今もわたくしたち日本の軍人を手厚くお祀りくださっており、十一分隊は例年、軍帽などゆかりのものを奉納しています。

 お時間があれば是非お出かけ下さい。
<軽巡洋艦「多摩」と大國魂神社>
ー軍艦多摩戦歿者慰霊祭に参加してー


軽巡洋艦「多摩」。
細長い艦体、直立した細長い煙突、シンプルな艦橋……。
大正時代に構想された八八艦隊を代表する5500トン型軽巡洋艦の内の一つ、球磨型の当艦は多摩川にちなんで名付けられ、艦内神社には現在も東京都府中市に鎮座する「大國魂神社」を祀っていた。
しかしながら「多摩」も先の大戦の最中、1944(昭和19)年10月25日、捷一号作戦中に米潜水艦「ジャラオ」の雷撃により沈没、艦長山本大佐以下全員が壮烈なる最期を遂げた。
帰還者のいなかった「多摩」は戦後の混乱や様々な事情により乗組員の慰霊顕彰がその後しばらく執り行われる事が無く、関係者も次々とこの世を去る中で大國魂神社にある「多摩」の軍艦模型のみがかつて大國魂神社が「多摩」の艦内神社であった事を伝える唯一のものであった。
「多摩」の慰霊顕彰という問題の解決は猿渡昌盛大國魂神社宮司にとって長年の悲願であったという。そこで戦没70年の節目にあたり、大國魂神社氏子崇敬会が中心となって「多摩」乗組員の慰霊顕彰の為、顕彰碑を建立し、その功績を末永く後世に伝え引き継ぐ事となった。
しかしながら艦長以下全員が艦と運命を共にした「多摩」は帰還者がいない為、調査は困難を極めた。元乗組員、当時を知る人、乗組員遺族、方々に手を尽くし、遂に去る2014(平成26)年10月25日、努力の結晶たる「軍艦多摩戦歿者慰霊碑」除幕式・慰霊祭を迎えたのであった。
式当日、七五三や他の参拝客で賑わう境内の中、忠魂碑前の会場には大國魂神社神職を始め「多摩」関係者や乗組員遺族、靖國神社宮司、東郷神社宮司や水交会、旧海兵出身者等各界よりの多数が参列し、新たに建立された「軍艦多摩戦歿者慰霊碑」除幕式並びに多摩乗組員の慰霊祭が厳かに催行された。戦歿から丁度70年、未だ祖国より遠くフィリピンはエンガノ岬の海中に眠る「多摩」の乗組員達への追悼と顕彰の礎が築かれたのであった。
慰霊祭の後、「多摩」の慰霊顕彰を後世へ継承する為に新たに設立された「軍艦多摩顕彰会」の設立総会が催され、大國魂神社猿渡宮司より今後も「多摩」の戦歿日である10月25日に慰霊祭を催行する事等が発表された。

大東亜戦争終結から来年で70年。
今日の平和の為に多くの英霊や国民が礎となられた事に改めて敬意を表すと共に、先の大戦を後世に末永く伝えていく為にもこの様な「歴史を掘り起こす」活動がますます盛んになる事を祈りつつ、まだ十分でない戦没者慰霊顕彰活動が広く認知されるようになる事を心から願い、今後も活動を続けていきたいと思う。