甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第27号
2016年12月29日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。

 明日は晦日ですね。お正月の準備に勤しんでいる方も少なくないと思います。 どこに初詣に行こうかと計画を立てている方もいらっしゃるかもしれませんね。 地元の馴染みの社に参拝される方。普段は訪れない特別な社に参拝される方。清々しい神域に詣でることで気持ちも新たにし、健やかに一年を始めたいですね。

 ところで神社、神宮、宮、大社。これらは社号と言い、ざっくりと分別すると「神宮」「宮」は皇室に所縁のある神社。「大社」は格式の高い規模の大きな神社。「神社」「社」は一般的な神社、となります。 さらに分祀により天満宮、八幡宮、天祖神社、神明社、天神社など、全国津々浦々に見かける事の出来る社がありますね。 また東京都と神奈川県を除く全国には護國神社があります。この護国神社とは、その道府県出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神としています。

 今回は名古屋に鎮座する愛知縣護國神社(愛知県名古屋市中区三の丸1-7-3)に訪れた隊員のエッセイをお送りいたします。
一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。
<愛知縣護國神社を訪れて>


愛知県の官庁街である丸の内から徒歩十数分、名古屋城の外堀を越えたあたりに愛知縣護國神社があります。都会の真ん中にありながら緑に囲まれた静謐な神社の風景は、東京の明治神宮を思わせる雰囲気があります。

社殿は鉄筋造りの頑丈な構造で、昭和20年3月19日の名古屋空襲で焼失した初代に代わり昭和33年に再建されたそうです。初代の宮司様が目の前で社殿が焼け落ちるのを御覧になり、二度と燃えないように鉄筋コンクリートで再建したと御神職に伺いました。この社殿は、今も神社を鉄筋コンクリートで建造する際のモデルケースとして取り上げられることも多いそうです。

同じ大東亜戦争中の空襲で焼け落ちた名古屋城も後に鉄筋コンクリート造りで再建されました。これも当時の人々が戦火に焼失する城の姿を見たからこそ、今度は二度と失いたくなかったという思いを持ったためではないでしょうか。歴史的建造物の再現方法についてはいろいろな考え方があります。戦後71年を経て今、愛知県では逆に名古屋城の木造再建計画が話題となっています。

話がそれましたが、愛知県護国神社にはいくつもの慰霊碑があり、多くの慰霊碑は神社右手の林の中に設置されています。

海軍関連の碑としては軍艦大和の記念碑、パラオ海軍部隊慰霊碑、海軍予備学生の碑などがありました。この海軍予備学生の碑の横に小さな飛行服を着た搭乗員の像が立っており、その像の支柱には神風特別攻撃隊大和隊の隊長としてその身を捧げられた予備学生出身の久納好孚中尉の御経歴が記入されています。久納中尉が愛知県出身であるとは存じ上げませんでした。

日清戦争・日露戦争の慰霊碑は社殿裏にあり、神職の方に案内していただきました。
お伺いしたところによると、元々神社として管理していたのは日清・日露戦争の慰霊碑のみだったそうです。これらの慰霊碑は戦前に大陸で建立されたものであったのが終戦後、大陸から引き揚げてくる陸軍の工兵部隊が内地に持ち帰ったものとのことでした。日露戦争の碑は軟質な岩石を用いており、経年劣化による文字の読めない箇所が増加しつつあり今後の管理方法に苦慮されているそうです。
それ以外の碑は戦後になり軍艦大和の記念碑を受け入れたのを皮切りに設置が始まり、一部の慰霊碑は三ヶ根山の殉国七士廟の近くにも設置されています。
しかしながら近年では戦友会の解散などで碑を管理する団体が減少しているそうです。現在も毎年戦友会による慰霊活動が行われているのは海軍予備学生の碑のみだそうで、「手を合わせてくれる方がいなくなったとき、それは碑としての役割を終えてしまう」という御神職の言葉には胸に突き刺さるものがありました。 ただ神社に慰霊の参拝をするだけではなく、神社の活性化につながる活動に参加することも、慰霊における重大な要素であることを実感しました。

戦後71年を迎え慰霊活動も世代交代を迎えつつあると思います。次世代に戦争の記憶を継承していくためにも、私自身も今後も各地の慰霊碑を回るとともに、可能な限り神社の祭事とかかわることで慰霊活動を続けていきたいと感じました。