甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第35号
2018年4月10日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。

 三寒四温の春先が過ぎたと思ったのも束の間、東京ではこのところ夏日を思わせるような暑い日があったり、一方で日差しは暖かくとも冷たい風が吹く日があったりと忙しない毎日です。都内では思わず挨拶に乗せる程度の冷たさでも、洋上に出れば首をすくめるどころの騒ぎではないのかもしれませんね。

 4月7日は何があった日かご存知ですか。軍艦大和が九州坊ノ岬沖にて戦没した日として記憶されている方も多いと思います。 しかしこの日に沈んだフネは大和だけではありませんでした。矢矧・朝霜・浜風が沈没、磯風・霞も自沈するなど激甚なる悲しみに包まれた日でもありました。

 今回は、4月7日に沈んだとされる駆逐艦朝霜の慰霊祭について。この模様は、甲飛喇叭隊 第十一分隊HPでも写真にて公開しています。併せて是非ご覧ください。
一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。
<駆逐艦朝霜戦没者慰霊祭に参加して>


四月八日、静岡県三島市の玉澤妙法華寺に於いて挙行された、駆逐艦朝霜戦没者慰霊祭に参列させていただいた。
玉澤妙法華寺は街の喧騒から離れた山中にあり、敷地内の木々の枝ぶりも素晴らしく風光明媚という言葉がぴったりする場所だった。
ここに、高い樹に囲まれて慰霊碑群がある。
一番奥が「駆逐艦朝霜戦没者之碑」。隣に「軍艦愛宕戦没者之碑」。そして「駆逐艦梅戦没者慰霊之碑」。さらに日露戦争での戦死及び病没者の供養塔も建っている。どれも大変大きいものである。
朝霜は昭和十八年に竣工以来多くの作戦に従事し、二十年四月六日、大和以下の水上特攻隊の一艦として沖縄を目指して三田尻沖を抜錨した。
しかしながら同艦はやがて機関故障を起こし、艦隊から落伍していき孤立した。四月七日に敵航空機と交戦、「我、敵機三十機と交戦中」の電文を最後に交信が絶えた。艦隊と離れていたためその状況は確認されないが、十二時十分頃九州南西方面海域に沈没、小瀧二十一駆逐隊司令および杉原駆逐艦長以下三二九名(慰霊碑の朝霜戦歴による記載)が全員戦死と認定された。
そのため、駆逐艦朝霜会は遺族の集まりであり、慰霊祭もまるでご親族の法要かのような温かい雰囲気がある。
この三島の地に、慰霊祭のために例年北海道、九州からも遺族がお集まりになるという。当日は本堂に約二十名の遺族がお見えになり、若い方や小さいお子さんのお顔も見られた。駆逐艦単艦での慰霊祭というのは珍しいのではないか。御本尊の前には、艦影とともに乗員の写真が掲げられており、広くはない駆逐艦の前甲板に、砲塔や艦橋を覆い隠すようにして全乗員が肩を寄せ合っているのが印象的だった。法要では朝霜戦没者と共に軍艦愛宕および駆逐艦梅の戦没者に対しても読経がされていた。愛宕はレイテ沖海戦で雷撃を受け沈没したが、その際に朝霜が救助をした縁があるという。読経と焼香の後、参列者全員で「同期の桜」と「海ゆかば」を合唱して法要は終わりとなった。本堂を出て、うららかな日差しを受けながらゆっくりと敷地を奥へ進み慰霊碑に向かう。碑前では参列者で黙祷をし線香を手向けた。黙祷の際には今回、甲飛喇叭隊が「水漬ク屍」を献奏した。
慰霊碑の由来は遺族の一人であり、御子息を朝霜で戦死された高橋晋五氏が世話人となり、氏の御地元である同地に建立されたことによるが、昭和三十一年に碑を建立するにあたっては、沈没海域につながる海と信じて沼津の海から戦死者と同じ数の石を採り、リヤカーで運び上げ、一つ一つに南無妙法蓮華経を書き込んで碑の基礎としたという。それ以後、毎年この地に集い英霊の供養を続けられているご遺族は、戦後七十年を超えてなお、強い繋がりで結ばれているようだ。何にも代え難いその身を投げ打たれて我が国の未来を護った人達があり、その先人を忘れじとこの地で慰霊の灯火を守り続けている遺族があることを知り、心を打たれた。