甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第3号
2014年10月14日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。
 これまで2通のNewsLetterを発行し今回で3号目をお送りする事となりましたが、関東圏に於いてはまたもや台風が過ぎ去った後の発行となりました。

 史上最強、過去最強、今年最強と様々に言われた台風19号。
 大きな動きの中心となっている人やものに対しても「台風の目」と例えられるように、日本には数多くの台風の目と呼び称された人物が実在していました。そのような人物のひとり、山本五十六とその周辺人物の関連性に注目した全3回連載の今回のコラム。
 今回はは第2回をお送りします。
 一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。


 10月18日(土)東京・日本青年館 大ホールにて行われる『第42回 大日本帝国陸海軍軍楽隊大演奏会』(※終了)に出演いたします。貴重な生バンド演奏付のステージに、わたしたち十一分隊の海軍・陸軍の立体再現も行われ、視覚、聴覚で楽しめる空間になる予定です。 お時間があれば是非お出かけ下さい。
<山本長官を支えた参謀たち(2/3)>

参謀長の次は山本長官の腹心といえる参謀たちを紹介いたします。
(著者注:都合上以下「○○参謀」と表記しますが正式にはそのような役職はなく、実際は単なる「参謀」として辞令が下され、当事者たちは担当職務に応じて「○○参謀」として呼び合っていました)



◎先任参謀
読んで字のごとく最先任の参謀です。首席参謀と呼称されることもあります。参謀たちの意見をまとめ参謀長に報告する役目のほか、作戦立案にあたる言わば作戦参謀というべき立場でした。
山本長官就任時の先任参謀は河野千萬城大佐(海兵42期)でしたが前長官からその職にあり、すでに異動の時期だったため約二カ月で転任となりました。人事局は後任に山本長官と同じアメリカ通の島本久五郎大佐(海兵44期)を決定。島本大佐にも内定を通知していました。
しかし山本長官はその人事に気に入らない様子。それを見た長門の福留艦長は、かつて伊藤整一人事局長より相談された人事案を進言します。それは黒島亀人大佐(海兵44期)を起用するというものでした。伊藤人事局長は、黒島大佐の努力家で着眼点がよいところに着目していたようです。山本長官は十に一つでも良いことをするならいいだろうとこれを認めました。浮世離れした様子からのちに「仙人参謀」と呼ばれた黒島先任参謀の誕生です。そして黒島参謀は、奇抜な発想力を発揮して山本長官の悲願だった真珠湾攻撃の作戦案に取り掛かることになります。山本長官は黒島参謀を高く評価していました。その証拠に次のような言葉を残しています。「(他の参謀たちに向かって)君たちに質問すると、いつでもみな同じ答えをする。顔が違えば答えも違っていいはずだが、違ったことを言うのは黒島だけではないか」。またこうも言っています。「黒島君が作戦に打ち込んでいるのは誰もよく知っている。黒島君は人の考え及ばぬところ、気がつかぬところに着眼して深刻に研究する。ときには奇想天外なところもある。しかもそれを直言して憚らぬ美点がある。こういう人がいなければ、天下の大事は成し遂げられぬ。だから僕は誰が何と言おうと黒島を離さぬのだ」。
山本長官と黒島先任参謀の関係は、長官が戦死するまでの約四年間続くことになります。

なお変わり者として現代でもイメージの強い黒島参謀ですが、変わり者だからといって決して愛想の悪い人物ではなかったようです。いつも冗談を言っては周りを笑わせる。気楽に接することができる温厚な人柄であったと、一緒に勤務していた方々の証言からもそれを読み取ることができます。作戦に集中するあまり、周りの目を気にしない様子だけがイメージを先行させているのかもしれません。


◎作戦参謀
作戦自体は本来先任参謀が担っていたのですが、太平洋に接する諸外国を相手にする大規模な作戦のため、多忙な黒島参謀を補佐する形で新設されました。
ここには三和義勇大佐(海兵48期)が着任しました。日米開戦一カ月前のことです。三和参謀は山本長官とは中尉の頃から度々同じ部署で勤務することがあり、まさに師弟のような関係でした。実際に三和参謀の山本長官への接し方は実の父に接するかのようであり、駐米時代の山本長官から肖像写真を送られると、それを額に入れて自宅の一室に掲げるほどでした。小柄で温厚。子供や部下への教育にも熱心な好人物でした。作戦に集中すると部屋にこもってしまう黒島参謀に代わって、参謀たちの取りまとめ役を担うこともありました。また連合艦隊に新任としてやってきた参謀に対して、三和参謀は山本長官との接し方をアドバイスしています。「山本長官に叱られたときの心得だ。決して弁解しないこと。そして黙って聞くのだ。悲しそうな顔をしてな」。この言葉には、山本長官と付き合いの長い三和参謀ならではの敬愛も感じられます。


◎戦務参謀
こちらも山本長官のときに新設されたポストです。主な任務は命令、日令、法令、訓示などの伝達あるいは報告です。
ここには渡辺安次少佐(のち中佐。海兵51期)が着任しました。渡辺参謀は黒島参謀と時をほぼ同じくして着任したため、日米開戦時には参謀の中では二番目の古株となっていました。身長は約180センチの大柄。しかも見た目と違って仕事は繊細。それでいて関西出身ならではの明るさをもちあわせ、三和参謀が着任するまで黒島参謀に代わって参謀の取りまとめ役を一手に引き受けていました。他の参謀たちからも「安兵衛」「安さん」と親しまれていました。将棋が強く初段なみの腕を持つといわれる山本長官からは、将棋の相手として重宝がられていたそうです。


◎政務参謀
戦務参謀と同じく山本長官のときに新設されたポストで、着任したのは藤井茂中佐(海兵49期)です。軍令部、海軍省、陸軍や各省庁との渉外を担当しました。山本長官は真珠湾攻撃前に、外務省はアメリカへ宣戦布告をしたかと何度も確認をしていますが、それを確認してしたのが藤井参謀です。藤井参謀の着任は日米開戦一週間前。藤井参謀も着任早々で心労は大変だったと思われます。藤井参謀は細身で、物静かな様子が学者や哲学者のようであったと証言が残っています。また藤井参謀も将棋の名手で、さすがの山本長官も時には唸るほどだったとか。
出身は山口県。山本長官とは日独同盟で意見が対立した岡敬純、石川信吾両少将と同郷で、当然同じ県人会会員。更には政務参謀の前は、岡軍務局長のもと局員を勤めていました。それにも関わらず山本長官に信任されたのは、その物静かな人柄が幸いしたのかもしれません。


この黒島先任参謀、三和義勇作戦参謀、渡辺戦務参謀、藤井政務参謀は山本長官に特に寵愛された参謀たちです。そして三和参謀をのぞく三人は長官が戦死するまで長くその職にありました。



前回は参謀長たちについてお送りいたしました。
次は各職務を担った参謀たちについてお送りいたします。