甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第29号
2017年2月13日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。

明日はバレンタインデーですね。キリスト教圏から伝わった記念日という認識が強いこの日、起源を探るとローマ帝国時代まで遡る事ができるそうです。
日本では、既に半世紀もの歴史がある「チョコレート・バレンタイン」が風習(奇習?)として浸透していますが、しかし近年では贈り物・贈る相手は多様化しているのが事実です。この機会にと、憧れの逸品を自分で自分に買い求める方もいらっしゃると思います。
特別なお買い物は、いずれにせよきっかけとタイミングが大切ですよね。

お送りするエッセイは前回に引き続き、戦艦武蔵と共に海に沈んだ猪口艦長と愛用したシャープペンシルについて。猪口艦長が買い求めたシャープペンシルはどのようなものだったのでしょうか。

 一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。
<猪口艦長遺品のシャープペンシル (2/2)>


やがて1915(大正4)年、錺職人だった早川徳次が金属製繰出鉛筆の実用新案を取得し、早川兄弟商会金属文具製作所を設立。翌年には改良を加えて芯を細くした「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」の量産、販売をはじめます。これが現在の「シャープ株式会社」の前身となり、日本でこのタイプの筆記具が「シャープペンシル」と呼ばれる契機となりました。早川式を含めてこの時代のシャープペンシルをみると、すでに現在のそれと外見上の大きな差異はなく、むしろ精緻な彫刻や象嵌など審美性に優れたものも多く見られ、先進の高級筆記具であったことを伺わせます。今日のようなノック式ではなく、口金を旋回させて芯を繰出すシステムでした。

では石廊特務艦長時代にサンフランシスコで買い求めたという、猪口艦長遺品のシャープペンシルはどのようなものだったのでしょうか。手元にある同型のペンを参考に遊就館で見たペンの記憶を併せて描き出してみましょう。
軸は製図用を思わせる八角形で、現代の主流のものより少しだけ短めで1円銀貨等と同じ銀900製。全体的にはシンプルで角を強調したアールデコ調ですが、細部に目を留めると胴軸には波型と千鳥格子の二種類のデザインが各面ごと交互に入っていて、工業的なフォルムとあいまって精緻な印象。 軸は日本人の指にも馴染む太さで、角がむっちりとした銀の心地よい触感です。
機構的には1930年代に登場した多色金属製ペンシル。 胴軸の四方に4つのスライダーがあり、スライダーを滑らせると、それぞれの色芯が出てくる機構は、現在の4色ボールペンの使い勝手と変わりません。説明書にもある通り、色替えは親指のみ操作することが可能です。スライダーのお陰で転がりにくく、揺れる艦上で使うのには適しているように思えます。
海軍の信号着信紙には高級士官が黒や赤や青でサインしていました。また、責任者が起案文書の修正に赤鉛筆を使うことも考えられますから、この多色ペンが選ばれたというのは納得します。芯の色は、スライダー脇の丸いマークで判るようになっています。マークは本来は赤→青→緑→黒となっていますが、遊就館のものはちょうど影になり、赤と黒以外はよく確認できません。 減った分の芯は口金を回すと少しづつ出て来る仕組み。当時のシャープペンシルはノックをすれば次々と芯が出てくるということはなく、芯を使い切った場合の補充は尾栓を外して上軸内のホルダーから予備の芯を取り出し、ペン先側から一本ずつ芯をセットします。
ペン先を紙にあててみると、銀製のため適度な重量。当時の芯も割合滑らかで、現代でも全く違和感のない書き心地です。ちなみに芯の太さは現代では特殊なサイズになるので、現代において常用するには苦労があるかもしれません。 書き物をするには万年筆が主流の時代とはいえ、現場でメモを録ったり書類にサインをしたり、簡単な訂正を入れたりするのにはシャープペンシルが確実だったのでしょう。こうした多色ペンシルは1950年台にボールペンが一般化してくるとそれに座を譲ります。
猪口艦長のシャープペンシルは銀の硫化が進み、くろぐろとした鈍い輝きを放っています。揃っているべき面ごとのデザインが上軸と下軸でズレており、スライダーは最後まで戻らずに途中で止まっているものもあり、随分と激しい状況下でお使いになられたのではと推察されます。しかし軸そのものには歪みも見られず、今なお凛々しい直線的な雰囲気を保っているのは流石。もともとは10年間の保証書が付いていたようで、その堅牢さを匂わせています。
メーカー名は遊就館ではちょうど裏になって見えませんが、これはモンブランのOEMを請け負っていた会社としても知られる、ドイツ南部のプフォルツハイム市に所在したフェンド社の製品です。1889年に設立され、金属製品と多色ペンシルが得意で、戦後は多色ボールペンも作っていました。 ブランドは「Super-Norma」シリーズで、これは1930年代からイタリア、アメリカに輸出されていました。アメリカではニューヨークのノーマ-マルチカラー社が扱っていたので、猪口艦長が購入したものはそちらが輸入したものでしょう。

石廊は給油艦で、戦前期は北米等から重油を輸送する任務にあたっていました。 猪口艦長が入港したサンフランシスコ港口には3年前に架けられたばかりの、米国の工業力の象徴とも見える当時世界一の巨大橋、ゴールデン-ゲート-ブリッジが真新しい姿を誇っていたはずです。
対米戦を控えた時期にあって、艦長はどのような思いでその鮮やかな色彩を見上げたのでしょうか。
それから3年後。猪口艦長は我が国の技術力の結晶であった武藏のブリッジで総員退艦を下令した後、フネと運命を共にされました。同艦の戦死者は1023名。
史上最大の海戦と謂われたレイテ沖海戦は翌25日、武藏亡失を含め多大な犠牲を払って終結しました。


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