甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第41号
2019年3月11日 発行
 みなさんおはようございます、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。
 近頃東京では、非常に強い風が吹き荒れる日があります。一方格段に雨降りも増えていますね。つくしの話題を耳にしたりと、春がいよいよそこまで来ているようです。
 とはいえ南北に距離の長い日本列島、まだまだ雪に覆われている土地も。 今回は、雪といえば北海道。北海道といえば要塞の街・函館!

 一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。


ここでふたつ、お知らせです。

1)今月16日(土)、神奈川県横須賀市の三笠ビル商店街で開催される「春の三笠祭(※終了)」に協力いたします。 小説『坂の上の雲』でも人気の秋山好古・真之兄弟。横須賀市と縁の深いこの二人にちなみ、三笠ビル商店街にポニーが、記念艦三笠からは「三笠艦橋の図」がやってきます!ポニーと三笠艦橋の図、そして我々甲飛喇叭隊 第十一分隊扮する明治騎兵・歩兵と一緒に、お写真を撮ってみてはいかがでしょうか。 我々は午前の部(11:00〜11:15 ※終了)、午後の部(14:00〜14:15 ※終了)に出演。その他お昼にもアーケード内でお写真のリクエストにお応えいたしております。 ぜひフォトジェニックな横須賀に遊びに来てくださいね!

2)私ども甲飛喇叭隊 第十一分隊は、四月一日をもちまして「甲飛喇叭隊」と名称を変更いたします。しばらくは新名称移行期間としてご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご了承ください。引き続き、ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。
<要塞の街散歩 その1>


 函館といえば何を思い浮かべるでしょう? やはり、夜景と五稜郭でしょうか。
 五稜郭はご存知の通り箱館戦争で旧幕府軍がわずか半年の間ではありましたが事実上の政権「蝦夷共和国」の西洋式要塞でありました。
 そして夜景といえば「函館山」。
六甲山からの広大な夜景も素晴らしいのですが、宝箱をうっかり横倒しにして散らばった宝石のような、陸繋島で絞られた夜景は、地元民ながら見飽きることがありません。
函館観光のマスト・コース、夜景観賞ですが、函館山が要塞だったということをご存知でしたでしょうか? 

今回は函館山の要塞についてちょっとお話を。

 函館要塞は明治28年(1895年)の日清戦争終了後、ロシアの南下と軍事的衝突を想定して明治31年(1898年)から4年の歳月をかけて造られ、山の4か所に砲台が設置されましした。
 大きな違いは他の多くの要塞が軍港を守ることを目的としていましたが、函館要塞は商業港としての函館港を守るために建設されました。
 対艦用の国産沿岸砲、28cm榴弾砲の射程は7800m、函館山の約300mの高低差があったとしても津軽海峡を航行する敵艦には届かないことから1発も発射されることはありませんでした。でもその存在ゆえに函館はロシア艦隊から攻撃されることはありませんでした。
 その後仮想敵国がアメリカに変わり、海と「空」からの攻撃から函館を守るために昭和2年(1927年)「津軽要塞」として函館山と海峡を臨む沿岸が再編、整備されました。海峡の最も狭いところ(18km)、汐首崎とマグロで有名な大間に戦艦伊吹の主砲を転用した砲台も完成し、海峡の封鎖が可能になりました。
 昭和20年(1945年)7月14日、15日には函館と本州の補給ライン、つまり青函航路の破壊のために米空母から発艦したグラマン(当時国民学校に通う叔父は屋根に上がって見ていたそうで、あれはコルセアだったと譲らないのですが・・・)による青函連絡船等に対するロケット弾攻撃、市街地への爆撃・機銃掃射による「函館空襲」があり400名以上の死者を出しました。函館市史では「一機の撃墜もなく要塞は函館を守ることはなかった」とされていますが、要塞の機銃で2機撃墜したという古老の話もあります。
艦載機による攻撃だったのは函館がB29の往復航続距離ギリギリだったからという説もあります。

<続く>
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