甲飛喇叭隊 News Letter 第45号
2019年8月8日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊です。

 遅い梅雨明けから猛暑日が続いていますが、なかなか身体がついていきませんね。水分補給をまめにして、無理をせず乗り切りきっていきましょう。

 現在公開中の映画『アルキメデスの大戦』(※公開終了)は、大ヒットした映画『永遠の0』の山崎貴監督がメガホンを振るった、軍艦大和建造がテーマの作品です。甲飛喇叭隊では隊長は装飾協力、隊としては取材・資料協力をさせていただきました。史実や実話のエピソードを下敷きに描かれた会議室エンターテイメントは、フィクションながらうっかりするとこれは史実では!?と思ってしまいそうな緻密さ。誰もが楽しめる作品だと思いますので、迫力ある映像をぜひ劇場でご覧になってください。

 映画の公開と併せて現在、筑波海軍航空隊記念館では『アルキメデスの大戦 原画&小道具展』が開催され(※終了)、甲飛喇叭隊からは今回の映画に貸し出しをした小道具類を展示しております。 永野元帥をはじめとした提督の書や、インテリアとして映画を盛り上げた小物類などをご覧いただけますので、こちらも足をお運びになってくださいね。

 どうぞ良い休日をお過ごしください。
<大伯父と回天と涼月と… (2)>


「昔、佐世保海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた。」

翌朝、筆者は祖母が住む大阪に飛び立つ前に、大伯父夫妻宅の近所にある納骨堂にお参りした。縁戚一家の仏壇にある過去帳の縁戚の欄を読むと、そこには「昭和20年4月7日 25才」と記されていた。鹿児島空港から伊丹空港まで飛ぶ際には、大隅半島から洋上に出る。74年前の昭和20年4月7日、大和以下艦隊はこの海を通って沖縄に向かった。もちろん、涼月もそれに入っている。自分とあまり変わらない歳だった縁戚は、何を想いながら涼月に乗り、沖縄へ向かったのか。間もなく訪れる自分の最期への覚悟或いは恐怖はあったのか。筆者は空から海を見下ろしながらそう思いを馳せた。

それから約2週間後の3月19日、筆者は靖国神社にある靖国偕行文庫へと赴いた。戦史等日本における近代軍事関連書籍が数多く蔵書されているため、より詳しく当時の状況がわかると思ったからである。そこで手にしたのは、倉橋友二郎氏の「激闘駆逐艦隊 (航空戦史シリーズ)」(朝日ソノラマ、1987、 以下、同書と称す)である。倉橋氏は昭和19年から沖縄への海上特攻にかけて涼月の砲術長を務めていた人物である。同書文中のドックでの遺体収容作業の様子ならびに、巻末にある海上特攻戦死者名簿を読むと、確かに大伯父の言うように縁戚の名前が記されていた。

しかしよく読んでみると、大伯父から聞いた話と幾らか違う点があった。以下にそれを挙げる。

・第一弾薬庫直下の区画にて、3名が己の命と引き換えに防水処理を施した。これは大伯父の話と同書の記載とで一致している。しかし同書によると、縁戚が戦死したのはその区画ではなかった。実際に縁戚が息絶えた場所は射撃盤室であり、縁戚含めた3名(官姓名記載あり)が腰をかけたまま頭を射撃盤につけてうつ伏せていたそうだ。倉橋氏曰く、被弾したことで頭を打ったらしく、ひたすら射撃盤の操作に専念していた時の即死であり、今なおそれをやり続けているようだったとのことである。これを知った筆者は、祖母にこの事実を伝えた。すると、「座ったままうつ伏せるような状態でなくなった、と聞いたことある」と祖母は言った。
一方、防水処理を施した3名については、短刀で自害した1名しか官姓名の記載がなかった。これらを照らし合わせると、大伯父は「3名」という同じ戦死者数を見て、縁戚が戦死した場所ならびに状況が混同してしまったのではないか、と筆者は推測している。倉橋氏は実際に遺体収容作業に携わっているため、同書に記載されている内容が事実と見るのが自然である。

・大伯父曰く、縁戚らの遺体は福岡の嬉野にある火葬場まで運ばれ、荼毘に付されたされているが、実際には佐世保市内の火葬場に運ばれた。また、嬉野は佐賀県にある。

・階級は兵曹長とのことであったが、実際にはそれより下の階級であった。

以上のように、最期の経緯等食い違いが多々あることが判明した。しかし、坊ノ岬沖海戦で、筆者とそう大きく違わない年齢で戦死した者が、自分の家系にいたことに違いはない。また、「せめて死に顔だけは拭かせて欲しい」という、当時少年だった大伯父のせめてもの願いすら(実際の事情は不明だが)受け入れられなかったことに、戦争の一つの悲劇を感じた。

今年で坊ノ岬沖海戦から74年となる。縁戚が仮に存命していれば100歳間近となる。また、当時16歳で勤労動員していた大伯父でさえ現在90歳である。
実際に軍人であった世代は今では数少なくなっており、近年取り上げられる戦争体験といえば空襲を受けたことや、疎開先での生活といったような、民間人としての目線が主となっている。勤労動員で工廠にいた大伯父の立場は、作業内容・場所や年齢的に軍人と民間人の中間とも解釈出来る。その「中間」ですら、終戦から74年を経た今日においては貴重な存在となっている。昭和、平成を経て、5月1日より元号は「令和」となり、先の戦争といった昭和前期の出来事はますます過去の出来事となりつつある。そうした過去になりつつある生の記憶を、戦後に生まれた世代である我々が直接聞き、彼らが皆いなくなってしまう時代に生まれる次の世代に対して、それを継承することこそが重要だと思う。特に筆者のように、昭和と新元号の間である平成という戦火にさらされなかった時代に生まれた平成世代こそ、令和生まれ世代へ大東亜戦争という昭和の出来事を繋げていくために、数少ない生き証人たちの話を語り継ぐべきだと思う。

※線に挟まれている文章は、大伯父から聞き取った話を、意味合いを崩さずそのまま纏めたものである。一部、史実の時系列と照らし合わせると合わない箇所がある。


(終)

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