甲飛喇叭隊 第十一分隊 News Letter 第18号
2016年2月27日 発行
 みなさんこんにちは、甲飛喇叭隊 第十一分隊です。
 冬独特の緊張した空気が日に日に解けて行くのが肌で感じられ、今正に早春賦の時ですね。 桜花の蕾もふくよかになり、冷たい風にもほのかに柔らかさが混じるようになりました。

 世の中には一端に魅力を感じると、とたんに囚われてしまう不思議な力を持つものがあります。 早春もそのうちの一つとして、古くから歌や絵、文などに表されてきました。 軍艦や戦闘機、武器や軍服などにも抗えない魅力がありますね。 もちろん人や土地も例外ではありません。
 今回のエッセイは全3回に渡り、岡山県の魅力を、人物、軍事史蹟を交えて御紹介いたします。

 一服の時間、お休み前の一時、どうぞお供にお読み下さい。
<岡山県の軍事史蹟 1/3>


2月といえばさまざまな記念日やイベントがありました。
記念日では紀元節(2月11日)、イベントならば節分(2月3日)やバレンタインデー(2月14日)。

そして私たちが忘れてはならないのが、連合艦隊参謀長や第五航空艦隊司令長官を務めた海軍中将宇垣纏。 宇垣中将の誕生日も2月でした(2月15日)。

宇垣中将と言えば、傲岸不遜で常にムスッとした顔で「黄金仮面」などというあだ名をつけられたとされていますが、こんなエピソードもありました。
大正12年の関東大震災の後、ある軍楽隊員数名が築地にあった兵舎を焼け出されてあてもなく歩いていたところ、ある海軍士官に「どこへ行くんだ?」と尋ねられました。
軍楽隊員が訳を話すと、その士官は「それならうちに来い」と言い、数日間彼らの面倒を見てくれたのです。
この海軍士官こそが当時海軍大尉だった宇垣中将でありました。

そんな宇垣中将の出身地は岡山県。
岡山県というと隣県の広島の陰に隠れてやや控えめなイメージを持たれがちですが、戦前・戦中は広島に負けないほどの軍都でもありました。
そのため、県内には軍事史蹟や慰霊碑が数多く存在します。
今回は岡山県に存在する軍事史蹟や慰霊碑について紹介していきたいと思います。

☆倉敷エリア
倉敷市船穂町にある高梁川沿いの土手を下り、かつては高瀬舟の水路だった小川に沿って進むこと数分。
山中へと続く急な階段を登って行くと、そこには日清戦争で戦死した陸軍歩兵一等卒白神源次郎の記念碑が建っています。

白神源次郎一等卒といえば、明治27年の戦死後「死んでも口からラッパを離さなかった喇叭手」として陸軍第五師団から発表され、新聞や雑誌で報道されたり検定教科書や軍歌にも取り上げられました。
そして明治29年、白神一等卒を讃えるために地元住民が募金し、この記念碑が建立されました。

しかし日清戦争後、まさかの出来事が。
第五師団が「調査の結果、彼の喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と、前の発表を訂正し、それに伴い教科書も喇叭手の名前を白神源次郎から木口小平へと訂正されます。
戦死時には白神一等卒は喇叭手ではなく、戦死の状況も敵弾を受けたことによるものではなく溺死だったと公表されました。

そんな白神源次郎一等卒は、現役兵として歩兵第二十一聯隊に在営中は喇叭手を務めており、しかも「二十一聯隊の喇叭手といえば白神」と呼ばれるほどの名喇叭だったのです。
予備役で召集され、戦死した時は喇叭手ではなかったにもかかわらず、「死んでも口からラッパを離さなかった」と言われた所以はこのあたりにあるのではないでしょうか。

(つづく)
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